2015年3月12日木曜日

「その人の分まで生きる」だなんて

人には人の数だけ感情があって、背負っているものがあって、その人しか知り得ない景色、感覚、乗り越えてきたもの、乗り越えられなかったもの、カルマ、使命、言葉じゃ表せないたくさんのもの、

それが一人ひとり、胸や肚の奥底まで詰まっていると思うと

やっぱり

「その人の分まで生きる」

だなんて、誰にも出来ないことなんだと思う。

今日という日も呼吸が出来る
そんなあたりまえ、に、感謝を。


***

日付は変わってしまったけれど
2015年3月11日
TwitterにもFacebookにも綴った
このことばを、ブログにも。

久しぶりの更新、長いけど、、一筆。


***

人の数だけ考えがあって、意見があって、信念があるからこそ、

震災当時は東京にいて、屋根のある場所に帰って眠ることの出来た自分が
あの日のことについて、あれこれ発言するのはどうなんだろう?と
ここ一週間くらい思い悩んでいました。

けれど
うたをうたっている人間である以上

とりわけ、"自分のことばを、自分の音で、自分の声でうたう"ことに拘っている人間である以上

何も触れずに終えてしまうとしたら、それはもっと違う、と思ったので
いろいろ考えて、選んで、紡ぎました。

私のまわりの表現者の方々も、友達も、いろんな人がいるから

敢えて何も言わないのも
意見を発信するのも
すこし強い主張の仕方をするのも
個人個人みんなそれぞれが選ぶことだから、それに纏わる責任を認識・判断しての行為なら、、と思う。


話が逸れた。



プロフィールの一文目に必ず書くから、知ってくれている人も多いかもしれないですが
私は東北の人間です。
青森県は津軽の生まれ。

だからこそ毎年、東日本大震災の日が近づくと、自分の立場の曖昧さというものに悩まされる。

震災当日は東京で仕事をしていて
当時は職場から徒歩1時間程度の場所に住んでいたから、帰宅難民にはならなかったし
寮住まいだったから、隣室に住む同僚の女の子が一晩中一緒にいてくれて、心細さもあまり感じなかった。
実家も停電に見舞われたくらいで、目立った被害はなくて。

けれど
自身が津波の被害に遭って、数日間避難所の生活を余儀無くされた友達もいるし
親戚が被災した友達もいるし
東北6県各地にも、同じく津波の被害があった函館にも、友人がいるし
関東圏では被害が特にひどかった、茨城にも友人がいるし
岩手も仙台も福島も函館も茨城も、青森在住時代に遊びに行ったことのある土地だから、他人事には思えなくて

同時に、東京で生活していると
仕方がないんだけれど、やはり対岸の火事、みたいな感覚でいる人が多いように感じてしまって
まわりのひとの、些細な言動にイラついてしまったり
でも同じくらい、自分も無神経な発言を、気づかぬうちにきっと、どこかでしていて

出来る範囲で、すこしだけ行動はしたけれど、でもそれも偽善なんじゃないか?と思ってしまったり

いろいろ、考えました。
今もいろいろ考えます。


ただ、あの日
テレビの画面越しでしか知り得ない被災地の風景に、ただただ唖然として
時間を追うごとに、速報で知らされる犠牲者の数が増える一方だったのが、映画でも観てるのか?って信じられなくて

そんな中で、

いつ何が起こるかわからないから、
いつ何があっても後悔のないように生きたい
生きなきゃ

そう思ったんだよな


まだまだ、うまくはやれていないけれど
あれから4年、いろんなことがあって
ようやく動き出せました。
今年に入って、まずはその一歩を踏み出したんだ。

相変わらず、良いことなんてひとつも言えないし
知らないことだらけだけれど

過去、現在を含めても含めなくても
私がうたう意味とか理由や、信念とか、揺るぎないものとか
"いま、これから"
何を核にして、つくって、紡いで、鳴らしていけばいいのか

その方向性を、やっと、確固たるものとして見据えることができている
そんな今日この頃です。

長いな。。


今もなお、闘いつづけている全ての方々へ、敬服の意を。
あの日に関連して喪われてしまった、たくさんの方々のいのちについて、ご冥福をお祈りいたします。


たぶんこんなに事細かに書いたことは今までないな、最初で最後にしよう
明日からも、胸張って生きよう。

最近撮った空の写真とともに。
最後までおつきあいいただいたあなた、ありがとうございました。